子どもが自分の思いどおりにならない

先生をやとなる。

しかし、外科の医師が、「きょうはこういう手術を行う。この手術はすべて神の誉れと人々の幸せのためにお捧げします」という意向を持って手術を行うことはできるでしょう。こうした意向を持つことが祈りなのですこうした意向を持つことは、決してむずかしいことではないと思います。この仕事を病気の母のために捧げますといったことは、みなさんよくやっていることではないでしょうか。自分だけのためにやるのではなく、人のためという意向を持ってすることによって、人は一生懸命にやらざるをえなくなるのです。
単に自分のためだけでなく、人のためにするといった祈りの気持ち、意向を持つことで、どうしても集中してやらざるをえないのです。

先生にも親にも言えないようなひどい

ですから、集中力の原動力としては、意向ということも重要な要素ではないかと思います与えるために受けてきたことを知る一般に、お母さん方が子供に勉強しなさいと言うとき、「お父さんやお母さんのためではなく、分の将来のためなのだから、勉強しなさい」と言うのではないでしょうか自このことも確かなことです。しかし、もう一つ次元を高めて、「あなたが勉強するのは自分のためでもあるけれど、それは偉くなるとかそういうことではなく、みんなに喜んでもらえるような人の役に立つような人間になるために勉強するのですよ」と、子供たちに教えてほしいものです人のためと、自分だけが偉くなる、エリートになるということでは目的意識が一八0度違います。今の子供たちが勉強をしているのは、自分のためだけではないのでしょうか。

 

先生でもない

先生でも近所のおじさんおばさんでもいいのです。育てたら知能の発達した人間

だから、勉強ができても自分勝手な人間になりがちですし、また勉強がいやになったら、そこには、人のためといった目的意識がないのですから、勉強するもしないも自分の勝手じゃないかということになるのです私が聖心女子学院で教えていた教え子は、現在では二十五歳から三十五歳くらいになっています時々教え子の結婚式に招かれます。そんなときにスピーチを頼まれてお話しするのですが、他の人たちが、彼女たちのことを新婦は才媛で…などと、どんなに美しく優秀だったかということは言われるので、私はちょっと教訓じみた、次のようなことを話します
あなたは、今までたくさんのことを、物質的にも精神的にも受けてきました。お父様、お母様、あるいは学校の先生や友達、社会に出てからは、会社のいろいろな方から受けてきているでしょう。しかし、あなたがこれまで受けてきたのは、受けるだけのために受けてきたのではなく、与えるために受けてきたのです。

子どもにも次のことを教えておきましょう。今がその時なのです。これまで吸収してきた知識とか技術などを、ご主人のため、そしてこれから生まれる子供のため、あるいは社会のために与えるために受けてきたのです聖書の中に与えることは受けることよりも幸せであるという言葉があります。その中にはお金など物質菂なものもあるでしょうが、さらに重要なことは精神的なことです。あなたは二十何年間も与えられ続けてきたのですから、それはそれでいいのですが、これから、惜しみなく与えるために生きてきたのだということを忘れないで、生きていってほしいのです
人のために役に立つ、人に与えるために、それまで受けてきたということを知ってほしいのです。
子どもを泣かせないと気がすまない
子どもを泣かせないと気がすまない

育てるのと同じよう

母さんも謙君もお父さんには逆らえません。痛まない愛は本物ではない今の時代では、人のためにという気持ちを子供に持たせることはなかなか難しいことかもしれませんみんながみんな自分のためだけしか考えていないようにも見えるほどです。そのため、人間関係はあくまでも合理的なギブ·アンド·テイクが基本であって、それが崩れると自分だけが何とか得をしたいという、テイク·アンド·テイクでありたいと思っているようです。
親自身がそのような風潮に染まってしまっていては、ことはできないでしょう。

母さんが言い

子供に、人のために生きるということを教えるたとえば、最近の子供は、学校に行って勉強することは得にならないとでも考えているのか、また遅刻しても、お金をとられるわけではないからとでも思っているのか、遅刻する生徒が多いと聞きますところが遅刻常習の子供であってもアルバイトは遅刻せずにきちんとできるというのです。つまり得になることには敏感なのです。
つまり、これは得するからやる、これをやっても得をしないからやらないというように、基準が得か損かということになっているからです。ですから、そうなると、自分が人の犠牲になるといったことはとんでもないということになりますたしかに人の犠牲になってまで何カをするということは難しいことです。子どもの幸福を心から願ってるわけです。


育てたら知能の発達した人間 いじめたりしないわね 母さんの願い

母さん自身に根強く残る感覚

子どもに当たり散らすよう

ですからどんな分野のことでも、現在の自分の力よりも上のことにチャレンジしてみるというのは、集中力を養う意味でも必要なのではないでしょうか。
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人を思いやれる心を人のためにするという気持ち何でもいいから、挑戦してみるということは、そこに目的ができることです。目的意識を持つと、自分の現在の力ではできそうもないことであっても、そこに向かって一生懸命に努力します。この一生懸命に努力するということが大切なのです時には、挑戦しても目的を達成できないこともあるかもしれません。しかし、そこに向かって努力したことは、決して無駄にはならないはずです。しかも、集中力という点では、これほど集中力を養うのに格好なことはないと思います私のことになって恐縮ですが、現在私はライフワークとして聖書の研究に取り組んでいます。
の場合には、子供の頃からの信者ではなく、大学生のときに洗礼を受けて信者になりました私大学を卒業してからは、東宮侍従の時代、聖心女子学院で教えていた時代、その後、現在にいたるまで教育評論家という肩書で仕事をしているわけですが、その間、少しずつは神父様からお話を伺ったりして聖書の勉強をしてきました。

母さんの心の中には信念があります

しかし、この聖書研究をライフワークにしようと思い立ったのは、気がつくのがとても遅かったのですが、四年前のことなのです。
何を自分のライフワークにしようかと考えたときに、イフワークにしようか、あるいは天文学が好きなので、学校では物理を教えてきたのだから、物理をラ天文学にしようかなどと、いろいろと迷いまし私は今六十五歳ですが、です四年前の六十一歳のときに、ふとひらめいたのが、その聖書の研究なの妻は聖心の出身で、子供の頃からの信者で、五人の子供たちも子供時代に洗礼を受けて信者になっています。そして、三番目の娘はカルメル会という戒律の厳しい修道会のシスターになっています。このカルメル会の院長に何年か前にお会いしたとき「この年になって聖書の勉強をライフワークにしようと思い立ったのですが、私は気がつくのが遅すぎました。それが残念でたまりません」
と話したことがあります。
そのとき院長は、神様に時はございませんと言われました。

 

子どものひとり立ちは自分で苦労した分しかできない

子ども部屋はお子さん勉強させるため

いいことをおっしゃると思いましたが、つまり、神様にとっては、遅すぎるということはないという意味なのでしょう。
大いに力づけられる言葉でしたそれ以来、時間が許す限り聖書の研究をしています。私はこれをみ教えの勉強と名付けているのですが、息子や娘たちにパパのライフワークはみ教えの勉強なんだと言うと、み教えの勉強とはずいぶんキザだねなどと言われたりします旧約聖書新約聖書をあわせると、七三巻あって、かつその注解や解説書は膨大に出ています。

育ててくれた親がいる二千年前のユダヤ人の習慣とか表現の方法がわからなければ、本当には理解できないのです。ことに日本人には、異質な文化ですから、とても理解しにくいものです。それだけに、解説書、手引書が必要なのです。定評のある解説書などを読みはじめて、ようやく意味がわかるようになってきました。
とても難解なのですが、み教えの勉強をしているときが、は、得も言われぬ喜びを味わえる至福の時なのです。
オーバーかもしれませんが、私にとって酉欧の美術や文学というのは、キリスト教がその土台にあります。
学校が設置されるようになったのです。
学校が設置されるようになったのです。

育てるということは魂を作り上げることです。

経験がない人少し聖書のことがわかってくると、美術や文学についても、今までと違って、この絵は聖書のこのことがテーマになっているんだといったこともわかるようになってきますですから、信仰のためということではなくても、西欧の芸術をきちんと理解するためには聖書を理解していなければ、本当には理解したとはいえないと思います。その意味では、教養のためにも聖書の知識は必要なものですが、土台はあくまでも信仰です。み教えの勉強をはじめてから、西欧の芸術に対する見方も変わってきました。
私は、この研究をはじめてから、それに集中するために、天文の本や物理の本などは、書斎から片付けてしまいました。

子どもの心が互いに届きあっている親子であれば

それらの本がそばにあると、どうしてもおもしろいので、そちらのほうを見てしま
うからです。
研究に集中するのに邪魔になるからですですから、机のそばには、聖書関係の文献などばかりになっていますさらに、み教えの勉強をはじめるときには、心を落ち着けて、「いま自分がこの勉強をすることを世界の平和、かもしれませんが、日本の平和、人々の平和のために、お捧げします」
とお祈りしてはじめるのです。
ちょっとーカそういう気持ちで、とらえています自分が勉強することで、もちろん自分のためもありますが、自分の家族の平和、日本人すべての平和世界の人々の平和のためにという意向、これはインテンションというのですが、意向を持って行うのです。
聖書の中で、キリストが絶えず祈りなさいと言っていますが、その意味を文字通り受け取ったらそれはできないことだと思いますたとえば主婦がお料理を作りながら祈る、外科の医師が手術の最中に祈るというのは、無理でしょう。子供だけが留守番ということが圧倒的にふえている。


勉強させるため 子どもが自分の思いどおりにならない 教育などというものはできません。