育てたら知能の発達した人間

子どもの話をさえぎ

日本にも何度も来ている、マザー·テレサという有名な宗教家がいます。
この人が、痛まない愛は本物ではない
と言っています。
私たちは、親友とか友達などといって人と付き合っていますが、よく考えてみると、「あの人とは、親友であったほうが、試験前のときにノートを貸してもらえる」とか夏休みには、あの人のお父さんの別荘に呼んでもらえるとかいうように、そこに何かのときに得だという計算が働いていたりするものですそこには、その人を踏み台にして、自分が得をする、幸せになりたいという気持ちがあります。

母が同居している

には、友達に対する愛などはなく、打算しかありません。
それマザー·テレサの言葉は、その人に何をしてあげても何の見返りもない、それでもしてあげるのが愛だというのです。その人の世話をするために自分の時間を使って、本当は他のことをしたかったのにその時間を犠牲にした。あるいはお金や物質的なものも出す。そうまでしても、相手からは何も返ってこない。それはやはり自分にとっては、犠牲を強いられる痛いことです。
私たちは、たいてい自分が痛まない範囲内でしか、人に親切にしていないのではないでしょうか。
自分が本当は別にしたいことがあるのに、その時間をさいて人に何をしてあげることは、やはり痛いことです。そんな痛い思いをしてまでもするというのは、とても厳しいことです。本物の愛というのは、マザー·テレサが言うように、痛むのです。しかし、頭ではわかっていても、実践するのは大変なことですそこで、与えることは受けることよりも幸せであるという聖書の言葉が生きてくるのです。

 

子どもに自由な遊びの無限の愉

子どもに注意を与えるときはまず母さんの願い

損得で考えれば、与えればたしかに損をすることになります。そこに痛みがあるわけです。しかし、与えることを実行してみれば、私のようなものでも、人のお役に立つことがあるんだという満足感を感じることができます。それは自分が与えてみてはじめてわかることです。
現代は損得でとらえるのが当たり前で、います。しかし、こんな時代だからこそ、が求められているのではないでしょうか。
損得抜きで人と付き合うのは愚かだといった風潮が支配して自分を犠牲にしても人に尽くす、人に与えるという、痛む愛
我が子の使命は何か身勝手な押し付けは困る親というのは、子供に対しては、与え尽くすものです。

子どもには大幅な自由を認め親は見返りを期待して子供にしてあげているわけではありません。子供はそんな親の愛を当たり前だと思って受け入れています。受けるだけ受けて成長していくのです。
しかし、自分が親になってはじめて、与え尽くしてきた自分の親の気持ちもわかるものです。
ところが、親には、親の側の身勝手な面もあるものです。子供に対して、自分がかなえられなかったそれは見返りを期待しているともいえるので夢を託すのは、す子供に対する親の身勝手な押し付けです。
それにもかかわらず、親は自分では、自分は子供のためにそうしていると思い込んでいるのです。
子ども達の記号やサインを読み
子ども達の記号やサインを読み

学習のできるわけがない。

子どもの依存性を強めます第四たとえば、子供に、いい学校を卒業させて、エリートとしての道を歩ませたいというのは、親の側には子供が幸せな人生を送れるようにするためにという理屈があるかもしれませんが、往々にして親が自分がエリート·コースを歩めなかった夢を子供に託しているのではないでしょうか。
そのことを、親の側が自分で気がついていないだけに、をしてやっていると思い込んでいるのです。
困るのです。
自分では子供にとっていいことこういう親の期待は、子供にとっては重荷になります。本当に子供のことを思いやっての上での期待ではないのです。それはお母さんの自己満足のためであったり、お父さんの自己満足のためなのです。

母親側の記録であって

ここに親の側の問題があるともいえます。親はたしかに子供に与え尽くし、親になってはじめて、人間として与える喜びを知るという面があるのですが、どうもそこには与えるだけではなく、自分も子供から与えてもらいたいという面もあるのです。しかも、自分が与えられたいと思っているのを、自分では気がついていないのです。
人間とは弱いものです。与え尽くすことは、本当に難しいことです。なかなかわからないものです。
頭ではわかっていても、実際にそれができるかというと、なかなかできないものです子供は敏感なものです。ですから、いくら親が、あなたのためにと言っても、そこに親の側の身勝手な夢の押し付けがあれば、そのことを頭で理解できなくても、何となく感じとってしまうものです言葉だけで言うのならば、教育はやさしいものです。母親は折に触れて


母さんの願い 子どもにもこのことは教えておきたいものです。 いじめたりしないわね

子どもが自分の思いどおりにならない

先生をやとなる。

しかし、外科の医師が、「きょうはこういう手術を行う。この手術はすべて神の誉れと人々の幸せのためにお捧げします」という意向を持って手術を行うことはできるでしょう。こうした意向を持つことが祈りなのですこうした意向を持つことは、決してむずかしいことではないと思います。この仕事を病気の母のために捧げますといったことは、みなさんよくやっていることではないでしょうか。自分だけのためにやるのではなく、人のためという意向を持ってすることによって、人は一生懸命にやらざるをえなくなるのです。
単に自分のためだけでなく、人のためにするといった祈りの気持ち、意向を持つことで、どうしても集中してやらざるをえないのです。

先生にも親にも言えないようなひどい

ですから、集中力の原動力としては、意向ということも重要な要素ではないかと思います与えるために受けてきたことを知る一般に、お母さん方が子供に勉強しなさいと言うとき、「お父さんやお母さんのためではなく、分の将来のためなのだから、勉強しなさい」と言うのではないでしょうか自このことも確かなことです。しかし、もう一つ次元を高めて、「あなたが勉強するのは自分のためでもあるけれど、それは偉くなるとかそういうことではなく、みんなに喜んでもらえるような人の役に立つような人間になるために勉強するのですよ」と、子供たちに教えてほしいものです人のためと、自分だけが偉くなる、エリートになるということでは目的意識が一八0度違います。今の子供たちが勉強をしているのは、自分のためだけではないのでしょうか。

 

先生でもない

先生でも近所のおじさんおばさんでもいいのです。育てたら知能の発達した人間

だから、勉強ができても自分勝手な人間になりがちですし、また勉強がいやになったら、そこには、人のためといった目的意識がないのですから、勉強するもしないも自分の勝手じゃないかということになるのです私が聖心女子学院で教えていた教え子は、現在では二十五歳から三十五歳くらいになっています時々教え子の結婚式に招かれます。そんなときにスピーチを頼まれてお話しするのですが、他の人たちが、彼女たちのことを新婦は才媛で…などと、どんなに美しく優秀だったかということは言われるので、私はちょっと教訓じみた、次のようなことを話します
あなたは、今までたくさんのことを、物質的にも精神的にも受けてきました。お父様、お母様、あるいは学校の先生や友達、社会に出てからは、会社のいろいろな方から受けてきているでしょう。しかし、あなたがこれまで受けてきたのは、受けるだけのために受けてきたのではなく、与えるために受けてきたのです。

子どもにも次のことを教えておきましょう。今がその時なのです。これまで吸収してきた知識とか技術などを、ご主人のため、そしてこれから生まれる子供のため、あるいは社会のために与えるために受けてきたのです聖書の中に与えることは受けることよりも幸せであるという言葉があります。その中にはお金など物質菂なものもあるでしょうが、さらに重要なことは精神的なことです。あなたは二十何年間も与えられ続けてきたのですから、それはそれでいいのですが、これから、惜しみなく与えるために生きてきたのだということを忘れないで、生きていってほしいのです
人のために役に立つ、人に与えるために、それまで受けてきたということを知ってほしいのです。
子どもを泣かせないと気がすまない
子どもを泣かせないと気がすまない

育てるのと同じよう

母さんも謙君もお父さんには逆らえません。痛まない愛は本物ではない今の時代では、人のためにという気持ちを子供に持たせることはなかなか難しいことかもしれませんみんながみんな自分のためだけしか考えていないようにも見えるほどです。そのため、人間関係はあくまでも合理的なギブ·アンド·テイクが基本であって、それが崩れると自分だけが何とか得をしたいという、テイク·アンド·テイクでありたいと思っているようです。
親自身がそのような風潮に染まってしまっていては、ことはできないでしょう。

母さんが言い

子供に、人のために生きるということを教えるたとえば、最近の子供は、学校に行って勉強することは得にならないとでも考えているのか、また遅刻しても、お金をとられるわけではないからとでも思っているのか、遅刻する生徒が多いと聞きますところが遅刻常習の子供であってもアルバイトは遅刻せずにきちんとできるというのです。つまり得になることには敏感なのです。
つまり、これは得するからやる、これをやっても得をしないからやらないというように、基準が得か損かということになっているからです。ですから、そうなると、自分が人の犠牲になるといったことはとんでもないということになりますたしかに人の犠牲になってまで何カをするということは難しいことです。子どもの幸福を心から願ってるわけです。


育てたら知能の発達した人間 いじめたりしないわね 母さんの願い

子供たちよりもまたこんなこともあります。

母さんにこの本を読んで聞かせて!

昔は、弱い子供をいじめる子供がいると、弱い者いじめはいけない
といった注意をする子供がいたそれを注意したり止ものです。ところが、現代では、弱い者いじめは悪いことだとはわかっていても、めたりする子供がいないというのですというのは、いじめをしている子供を注意したり止めたりする子供がいると、周りの子供から格好をつけるなとかいい格好するなといった形で、その子供が逆に非難の的になるというのです。
教育も素晴らしい。

父親が厳格すぎても問題が起こる。

個性尊重の世の中だから…

自分だけ、先生にいい子に見えるように、点数稼ぎをしているといったように見られるのです。
その結果、いじめを注意したり止めたりする子供がかえっていじめられたり、仲間はずれになってしまうのです。ですから、いじめているのを注意することができにくくなって、自分は悪いことだとはわかっていながらも、いやいやいじめに加わらざるをえないといったことさえあるというのです。
このいじめの問題の背景にもあるように、どうも現代では、いいことをするとかえって、いい子ぶっているといった形で非難されることが多いようです周りからその結果、逆に、本当はやさしく正しい心を持っているはずなのに、的な態度がいいと思い込んでいるような面があるのではないでしょうかわざと悪ぶって見せる偽悪
5いいことをするのが照れ臭くて、どうしても悪ぶってしまうという年頃も確かにあります。


子供が大きくなるにつれて
子供が大きくなるにつれて

子どもの言うなりになってき

教育は簡単なものです。上品ぶっていると言われるのがいやで、わざと乱暴な言葉を使ってみたり、人に親切にするのが恥ずかしくてかえっていじわるな態度をとってしまったりするということがありますこういう年代は、普通は自然に通過するものですが、ことが多いのではないでしょうか。
どうもそのままの態度で、大人になってしまう
偽悪的な年代というのは、早いか遅いかはその子供によって個人差がありますが、早く通過してほしいものです。それを卒業した上で、何がいいことか何が悪い
ことをきちんとわきまえた大人になってほしいものです自分がいいと思うことをきちんと態度で表明できないというのは、どこかで自信がないからです。どうしても人の目が気になってしまうのです。自分がこんなことを言ったら人はどう思うだろうかとかこんなことをしたら、人がどう思うだろうかと人の目を気にしてばかりいるのです。
気にしていない振りをしているのですが、とても気にしているのです。自分の考えよりも、人の目のほうが優先されてしまって、善悪の基準がきちんとしていないから、偽悪的な態度をよしとしてしまうのではないでしょうか。
キッズダンス教室で子供自身に根強く残る感覚子どもは忘れることがあって偽善も偽悪も自分の考えよりも、人の目のほうが優先されるから、出てくる態度といえるのです毅然とした態度がとれないお母さんいいこと、悪いことという区別を、はっきりと子供にわからせるのは親の役割といえるでしょう。
たとえば芝生に入らないで下さいという立て札が立っていたとします。ところが、子供たちがみんなその芝生に入っています。自分の子供も芝生に入ろうとします。そのときにお母さんはきちんと入ってはいけませんと注意できるでしょうか。
いけませんと言ったときに、子供はきっと

子どもの場合

「だってみんなは入っているじゃない。なぜ僕だけ入ってはいけないの」と反抗することでしょう。
そのときに毅然として、お母さんであってほしいのです。
は入ってはいけませんよ。
たとえみんなが入っていてもいけないことはいけないのですよ
芝生に入っているよその子供たちにもと言えるまた、もう一歩進んで、外で遊びなさい
子供からと言えるくらいであってほしいのです。
みんながやっている
ところが、お母さんにとって、と言われると、とても弱いのです
みんなが持っていて、僕だけは持っていない
けないと思って買ってあげてしまうのです。
と言われると、自分の子供だけが仲間はずれになるといというのは、お母さんが世間体にとらわれているからです。うちの子供はせめて世間並に
んなと同じようにやっていれば安心という気持ちがあるのです。
とか
みお母さんに、自分自身のきちんとした見方がなければ困るのです。
子育てのブレない軸


母さんがうまくいっていないのです。
母さんがうまくいっていないのです。

個性や感性は自由

たとえ、みんながやっていようとも、そこで遊んではいけないと書いてあれば、その規則を守らなくてはいけないということを、子供に態度で示さなくては、子供にはわからないのです。
お母さん自身に、そういう規則を守らなくてはいけないといった気持ちが希薄だから、ていればいいという、世間並といったところで、妥協してしまうのではないでしょうか。
みんながやっ子供に例外を覚えさせてはいけない周りの人の迷惑になるような所で、子供が騒ぎ回っていることがしばしばあります。そんなとき、案外とお母さんは、子供に注意していません。こんなとき、お母さんは見て見ぬ振りをしているのです。
これは家の中でなら、注意したり叱ったりして、子供が泣きわめいても困らないけれど、人前で注意して、子供が泣きわめいたりしたら、お母さんはかえって困るということがあるのかもしれません。

教育になっていくものである。

子育てのブレない軸

母さんのまわ

それが、今から思うと惜しまれてならないのです。
しかし、誰も表立って反対をしなかったあの当時、アメリカと戦争するというのはばかげたことだなどと言ったら、それこそ、殺されたかもしれません。そのことを覚悟しても、要職にあった人がきちんと言うべきことを言わなかったというのが、後世のわれわれから見ると残念でなりません。
それで、私はそんなときキリスト教ではどういう態度をとったらいいのか、と考えてみるのです。すると、キリスト教では、徹底的に人とかかわろうとします。だから、自分が痛みながらでも人を助けるのです今、本当に社会のため、日本のためを思って、自分が泥をかぶってもかかわっていくという姿勢が必要なのではないでしょうか。

個性がないと思います。

それはたしかにそんな面倒なことはやらないほうが楽です。しかし、人からあいつばかだなと言われても、損をしても泥をかぶってでも、ものを言っていかなくてはいけないのではないでしょうか。
うちの子供とよその子供こうした現代の日本人のあり方というのは、当然子供に大きな影響を与えています。最近の子供が損得だけでしか動かないとか、自分のことしか考えないというのは、親の世代や大人たちが、そういう生き方をしているからではないでしょうか。
5よく電車の中で見かけるのは、子供がまるで自分の家の中にでもいるかのように我が物顔で走り回ったり、騒いでいる姿です。親は多少は注意したりすることもありますが、たいていは一言、二言注意するだけで、子供たちが騒いでいるのを、放任しています不愉快そうな顔をするものの、また周囲の人たちもいます。
見ていても何の注意もせずに、知らん顔をして昔はこんな子供がいると、周囲の大人が注意したり叱ったりしたものです。

 

母親も出てくるという。

先生友だち。子供たちよりもまたこんなこともあります。

よく叱ってくれましたと叱ってくれた人に感謝したものです。
そして、親のほうもところが今は、お年寄りが注意したりすると、親のほうは、いかにも迷惑そうに余計なおせっかいをするなといわんばかりの態度です。自分の子供は自分のものであって、他人には口を挟ませないといわんばかりです。ですから、みんなもよその子供はあくまでもその親のものであって、何をしても他人は口を出せないといった風潮なのです。
子供というのは、さきほども言いましたが、親の所有物ではなく天からの授かりものであり、預かりものなのです。

母さんにしてみればさっさと食べてほしいでしょう。そう考えれば、子供の教育ということには、親だけがかかわりを持つのではなく、すべての大人の責任、社会の責任なのではないでしょうか。
自分の子供ではないからどうでもいいという態度は次代を背負う人間に対して、無責任ではないでしょうか。そこで、親にはいやな顔をされてもきちんと注意していかなくてはいけないのではないでしょうか
他人の子供ならばどうでもよく、自分の子供さえよければいいといっても、社会全体がよくならなければ、自分の子供も幸せにならないはずです。世の中全体が悪いのに、自分たちだけが幸せであるといぅことはできません。みんなが幸せになれるような世の中であるからこそ、自分たちも幸せになれるのです。
ですから、悪いことをしている子供を見かけたら、はきちんと注意してほしいものです。
子供の励み
子供の励み

母親にはふだん

成績ですし誇るに値するものです。たとえ自分の子供でなくても勇気を持って、大人自分の子供ではないから関係ないという態度が、子供の問題をますます大きくすることになるのです。
そういうときにきちんと注意できない大人は、自分の子供であっても、体も大きくなって注意したり叱ったりすると、逆に親のほうが、子供に暴力を振るわれてしまうというので、恐れて何も言えない親になるのではないでしょうか。こうした小さな芽が、女子高校生の監禁·殺人といった大きな事件を引き起こすもとにもなるのです。
大人たちがきちんとした気概を持って生きてほしいのです。
うつす鏡でもあるのです。

しつけの甘さについて

子供たちの姿は、親の姿、社会の実情を子供にいくら友達と仲よくしなさいと言っても、お父さんとお母さんが家庭の中で喧嘩ばかりしているのならば、子供は親の言うことなどまともにはききません。
かがみもう一度、親は子供の鑑であること、子供は大人をうつす鏡であるということを、お父さん、お母さんは十分にかみしめてほしいのです。そこで、社会のため、人のためという大きな視点を持って、子供に接してあげてほしいものです。

人間としての基本を大切に

人の目に振り回されていないかΦ悪ぶった態度をとってしまう理由一時期、学校内での生徒同士のいじめということが大きな問題になったことがあります。今はマスコミなどでは、あまり騒がれなくなりましたが、どうもいじめの問題は解決したわけではないようです。
この問題の背景にはどういうことがあるのでしょうか。子どもの気持になってみてそれを受容できるよう


子供たちよりもまたこんなこともあります。 母さん自身に根強く残る感覚 子供たちよりもまたこんなこともあります。

大学を出てもいまは教員免許さえ取

育てたいという私たち

そんな恥ずかしい思いをするくらいならば、子供がちょっとくらい騒いでいるほうがましだというわけなのでしょう。
子供というのは、なかなか残酷な一面を持っているものです。子供は自分がこうすれば、お母さんが困るというのを知りながら、わざと困らせるような態度を取ることがよくあるのです。また、こんな状況ならば、お母さんに怒られないということも承知しているのです。そこで泣き叫べばお母さんが困って自分の言うことが通るだろうというのがわかっているわけです。
欲しいものを買ってもらえないときなど、駄々をこねて泣き叫んでいる子供がよくいます。こうした態度を取るのは、子供は意識しているわけではないでしょうが、お母さんを困らせて何とか自分の欲しいものを手に入れたいからです。
あるいは、お客さんが来たときには、子供はわがままぶりを発揮することがよくあります。
がいると、普段であれば怒られることも大目に見られるとわかっているからですお客さんお母さんが人目や世間体を意識していると、し通そうとするものです。
子供はそのことを見抜いて、何とか自分のわがままを押こうした子供のわがままにつけこまれない強さを、お母さんは持っていてほしいものです。
教育というものが真

大学の受験日にはホテル

母さんが病気であって

私は十年間浩宮様のお世話をしたのですが、その間、浩宮様は私に対する告げ口を、お父様、お母様に言われたことはありませんでした。
これは、お母様の態度が一貫していたからです。
妃殿下はお父様、浩宮様が浜尾さんにぶたれたといったことをおっしゃっても、きかなくてはいけませんとはねつけていらしたからです。

浜尾さんの言うことをすでにお話ししたように、子供というのは、いつでもいい子というわけではありませんから、が言うことをきかないので、私が心を鬼にして体罰を加えたこともありました浩宮様二、三歳の子供ですから、たたかれればワンワン泣きます。当時の東宮御所の子供部屋は1階にあって、殿下と妃殿下のお部屋は11階にありました。


子どもが親の言うことをきかなくて困ったとき
子どもが親の言うことをきかなくて困ったとき

母さんはそんなまじめな女の子

両親に警告する人が出てくるでしょう。子供の声というのは響くものですし、浩宮様の声はとくに通る声でしたから、二階のお部屋にまで響いて、よく聞こえたはずですわが子が大声で泣いているのですから、殿下も妃殿下も何があったのかと、それこそ階段を下りて吹っ飛んできます。そして、子供部屋を見ると、浩宮様が大粒の涙を流しながら私を見あげている。私は怖い顔をして、腕組みをしながら浩宮様をにらみつけています普通であれば、妃殿下は何があったのですかと、まず私に聞くところでしょう。しかし、そんなときに、妃殿下は、私には何もおっしゃらずに、徳ちゃん、どうして浜尾さんの言うことをきかないのと一言おっしゃるのです。
これは、妃殿下の母親としての素晴らしいところです。もし、浜尾さん、徳ちゃんを泣かせたりして困るじゃありませんかなどと言われたら、教育などというものはできません。任せた者にはきちんと最後までお任せになるという態度なのです妃殿下は、後で浩宮様がいらっしゃらないところで、私を書斎にお呼びになって、
浜尾さん、さっきのことはどういうことだったのですか
と、事情をおたずねになるのでした。
おしゃれな子どもが行きたい写真館子どもとつき合いですから、私はそのときに、「実はこういうことで、何度注意をしてもおききにならなかったので、ちょっとお尻をおぶちしました」というような説明をして、そこで事情を納得していただくといった方法でした。浩宮様の前で私を責めたり、とがめたりするといったことは決してなさいませんでしたし、事情の説明も後でするというように、その場では、養育係である私の側に立って浩宮様にご注意をされていました。
このように、教育を任せたら、その任せた人間を絶対的に信頼するというのは、なかなかできないことです。私たちは、担任の先生について、あんなやり方はちょっと困るなといったことを何の注意も払わずに、子供の前で言っているのではないでしょうか。これでは、子供の先生に対する信頼を親が崩していることと同じです。
もちろん先生といっても完全無欠ではありません。
のではないかと思えることもあるでしょう。しかし、ないのではないでしょうか。

個性を愛し認め

時には、親の目から見ると、ちょっと違っている子供の前では、先生の悪口を決して言ってはいけ私の場合は、両殿下に絶対的な信頼をしていただいて、浩宮様の教育をお任せいただいたからこそ小過はあったけれども大過なく十年間の養育係としての仕事を何とか無事に務めることができたのだと思います。こんなに信頼をいただいていたら、一生懸命にやらなくてはという気持ちにもなるものです。
もし、浩宮様がご両親に私の悪口を言って、その言い分が一度でも通ったとしたら、そんなときはご両親に言えばいいということになって、私の言うことなど全然きいてくださらなくなっていたことでしょう。
勉強させるため


しつけはどこまでしたらよい
しつけはどこまでしたらよい

母親でとき

ですから、どんなことでも例外を作っては駄目だと思います。子供というのは、自分に都合のいい例外のほうを覚えてしまうものです。ですから、お母さんがいけないとなったら、どんなときでもいけないということで通さないといけません。それは子供が泣き叫んでも駄目なものは駄目だときちんと通すことです。
心は形についてくるしつけの基本は幼いときにしつけの基本は、感謝の言葉、挨拶の言葉、お詫びの言葉をきちんと言えるようにすることです。
最近の子供を見ていると、ごめんなさいという言葉が言えない子供が多いようです。先日もホテルのロビーを走り回って、ガラスの灰皿を割ってしまった四、五歳の子供がいました。ホテルの係の人が早速掃除をしていましたが、その係の人に両親が謝って、子供にもごめんなさいと言いなさいと何度も言っているのですが、子供のほうが頑として謝ろうとはしませんでした。

母親のとるべき態とかく

母性的愛情系

成績を残してき

たとえば、野口英世は体のハンデを克服して偉い医師になったとか、二宮尊徳はまきを背負いながらも勉強したほどで勤勉の見本であるとか、あるいは外国でもキュー夫人、リンカーン、ワシントンといった歴史上の人物について、私たちがどのような人をお手本としていくべきかといったことについて習ったり読んだりしてきたものです。
ところが、戦後になってそのような価値観はひっくり返ってしまいました。偉人の偉いところを称えるよりも、むしろそうした偉人であつても、私たち普通の人間と変わりない存在なのだといった見方考え方を植え付けてきたのではないでしょうか。
もちろん、どんな偉い人でも欠点もあったでしょうし、にはいかなかったかもしれません。
母親の言葉を思い出しあ

学校は誰のために行ってる?

子どもの好奇心の芽

行なったことがすべて正しかったというわけしかし、あまりに、たように、その人々の実像ということにこだわったり、あるいは同じ人間なんだということにこだわるその偉ささえも見過ごしてしまうようになったのではないでしょうか。これは、すでに述べ偽悪的な傾向とも通じるものです。
それだけに、戦後の教育を受けてきた人たちにとっては、自分たちが模範とすべき立派な人というのがなくなってしまったのかもしれません。その結果、尊敬する人物としてあげられるのは、芸能人であったり、スポーツ選手であったり、あるいはお父さん、お母さんという身近な存在ばかりになってしまったのでしょう。


子どもをほ
子どもをほ

子どもに優しさや思いやりを持ってもらうため

中学という絶対的なすべり止めがあるという政治家とか経済人、学者といった人物は、ほとんどその対象にならなくなってしまったようです。実際、同時代人として見ていると、尊敬できるような政治家や経済人はごく少ないというのも確かなことです。
ですから、立派な人、恥ずかしくない人間といっても、昭和二十年以降の戦後生まれのお父さんお母さんには、どのような人間像かということがわからないということがあるかもしれません幼い子供を持っている親の世代は、昭和三十年から四十年生まれの人が大部分でしょう。この世代の人にとっては、ある人をトータルな人物像として尊敬するというよりもむしろ、この人のこの部分は素晴らしいとか、別の人のこの部分は素晴らしいといったように、分析的で冷静に見ているようです。
それはそれで一つの見方かもしれませんし、部分、部分であっても、立派な人とはどういうものかという具体像があれば、子供を教育する上でのよりどころにはなると思います。
教育を打ち破らなければなりません。子どもの自立が遅れるなどというものである。たとえ具体的に立派な人物像というのが思い浮かばなくても、私は人間としての基本としては、善悪の基準をきちんと教えること、そしてもう一つは自分がされていやなことは人にしないということだと思います。この二つの基本をしつけることができれば、子供は人として立派に育つのではないでしょうか
私は基本は単純に考えていいと思います。といっても、この基本はとてもむずかしいことかもしれません。親自身がなかなかわかっていなかったりできなかったりしているのではないでしょうか。

子どもは本来の健康さに思春期

人の心を大切にできる人に自分がされていやなことは人にしないということは、人の心がわかることです。これは簡単なようで、とてもむずかしいことです。少しも気にせずに言った一言が思いがけずに相手の心をとても傷つけて
しまうということもあります。
人は案外と相手の心に対しては鈍感なものです。
いのですそれだけに、人の心を大切にできる人に育ってほしとくに最近は物が豊かになって、もったいないという言葉をあまり聞くことがなくなりました。無理して料理を全部食べるよりも、むしろ食べたくない物ならば残したほうがいいという考え方ですし電気製品など、ちょっと故障したら、新しい物に買い替えたほうが早いという感覚です。
母さんは赤ちゃんの国語


両親には自分たちの幼い頃に不自由が多かっただけ
両親には自分たちの幼い頃に不自由が多かっただけ

教育目標が示されていることがあります。

昭和三十年代以降に生まれ、ちょうど日本の高度成長時代に物心がついて育ってきた、今のお父さんお母さんの世代には、日本が豊かになってからのことしか記憶にないでしょう。物のない時代を知らないのです。豊富な物に取り囲まれて育ってきているのです。それだけに親の側にもったいないという感覚がありません。
私の育ってきた時代は、物のない時代ですから、もったいないという言葉を母親から耳にタコができるほど、いつも言われて育ちました。ご飯茶碗に米粒一つでもついていると、ご飯粒1つ残してはいけませんと叱られたものです。
ですから、いまだに私は食事を残すといったことはもったいなくてできませんしかし、もったいないというのは、ただ単に物がなかったというだけではなく、
お百姓さんが丹精込めて作ったお米なのだから、もったいない
そんな大切な物を残してはいけませんよ
ということには、とも言われました。

母さんは豊君を車に乗せて

教育というものが真

母さんは口ば

最近は転職をする人も多いといわれますが、それも見極めが早いことの一つの現れなのかもしれませんもはや若い人に忍耐などを求めるのは間違っているともいわれます。ですから、かに若い人にやる気を持って仕事をさせるかが大きな問題になっているといいます。
会社としてもい日本中がマネーゲームに打ち興じるような時代です。その中で、いかに自分が得をすればいいかということだけしか眼中にないかのようです。

子供が勝手にお菓子をとって食べるので注意する

そして、自分の枠の中にだけ閉じこもって、面倒なことにはかかわりたくないという風潮になっています。
女子高校生を監禁して殺してしまい、コンクリート詰めにして死体を捨てたという、以前起きた非常にショッキングな事件でも、その罪を犯したのは十代の子供です。長い期間、自宅に監禁していたのにもかかわらず、その子供の親は子供に何も言えないような状態だったといいます。これはどういうことなのでしょうか。
自分の子供が何をやっていても、注意もできないというのです。
このような悲劇的な事件が起こるのは、やはり自分さえよければいいという風潮が蔓延してしまっているからではないでしょうか。その考え方には、社会性といったものが欠落してしまっているのです。
時の徴を見てとるという言葉があります。これは時代の徴候を見て、自分が何をするかを考えるという意味です。

 

母さんを困らせたいのではなく

学校へは行かないぜって言ってしまいたいのだなあ。子どもが自分の思いどおりにならない

しるしこれを悪い意味に解釈してしまうと、時代の流れをつかんで、その中で自分がいかにいい仕事につくかとか、楽に生きていけるようにするかといったように解釈されてしまいます。しかし、本来の意味はその中で、自分が何をするのを社会が求めているのかを考えるということです。
日本人はいつの時代からか、小利口になってしまったのではないでしょうか。自分だけが何かをやっても無駄だと、する前から諦めてしまうのです。しかし、こんな時代だからこそ、もっと社会とかかわって、その中で自分の役割を自覚して、行動してほしいのです。
社会の実情をあらわす子供たちの姿もの言えば唇寒し
に負けないでたしかに社会は、一人や二人が頑張ってもなかなか変わらないかもしれません。

母の手というのは祈っている手です。分の殻に閉じこもってしまい、他人や社会は関係ないといった生き方をするのは、私は卑怯だと思います。
だからといって、自楽な生き方であって自分だけは安全なところにいて、自分の城だけを守っていくという生き方です。
家庭も社会も国も世界も決してよくなってはいきません。
しかし、それではさきほども痛まない愛は本物ではないと言いましたが、面倒くさい、痛い思いをするけれど、それでもやっていこうという人が何人かいれば、門は必ず開かれるものではないでしょうか。私はそう信じています。
ですから、批判のための批判というのではなく、言うべきときにきちんとものを言っていく態度というのは大切です。出る杭は打たれるあるいはもの言えば唇寒し秋の風ではありませんが、たしかにそういう人は周りからたたかれたりするかもしれません。
子ども二人並べおとうさんが裁くの?
子ども二人並べおとうさんが裁くの?

子どもを太

育児法で育そうであっても、言うべきときには、きちんと言って、社会とかかわっていかなくてはいけないのではないでしょうか私は戦時中に育ったので、戦争には行っていませんが、戦争の思い出は数多くあります。私が小学校六年生のときの昭和十二年に日中戦争が始まり、中学四年のときの昭和+六年に太平洋戦争が始まりました。昭和二十年の終戦を迎えたのは、私が大学二年のときでした。そんな育ってきた時代のせいもぁるのか私は戦記物を読むのが好きです。
戦記物を読みながらいつも考えるのは、たのかということです。
どこで日本は戦争への間違った道を歩むことになってしまっそんな中で一つ思い当たったのは、ないみつ.日本の海軍のあり方です。

子どもに手伝わせる部分を作りたいものです。

海軍大臣や総理大臣も歴任している米この人が言ってい内光政という立派な海軍大将がいます。
この人は山本五土ハの先輩に当たる人です。
ることに他者を侵さず、己をも侵されず
という言葉がありますこの言葉は、つまり、もともとイギリスのことわざからきていて、Mindyourownbusiness
という言葉です「自分の仕事にいそしんで、他人のことに干渉するな、余計なお世話をするな」
という意味ですこの言葉も海軍の基本方日本の海軍は伝統的にイギリスの海軍を模範として組織してきているので、針として取り入れられてきたものです。
つまり、海軍の伝統の中に、余計なお世話をしないで、自分の仕事だけを心がけていろといっとがあって、海軍はこの言葉を折り目正しく守り続けすぎたのではないか、ということです。そのために、陸軍の横暴を見ていて苦々しく思っていたり間違っていると思っていた海軍の軍人もたくさんいたと思うのですが、口をはさまなかったのではないかと、思うのです。
その結果、あの当時、あのような戦争に突入してしまったのではないでしょうか戦争に突入することを冷めた目で見て、心の中では反対していた立派な人は軍人の中にも、元老や天皇の側近の中にもたくさんいたと思うのです。子どもにするためには根気よく


子どもが自分の思いどおりにならない 教育も素晴らしい。 大学を出てもいまは教員免許さえ取

勉強させるため

育てたりするぐらいはできるはずです。

しかし、子供にはそのようなことはわかりません。ですから、まず形から入るということも大切なことなのです。
心と形ということではこんなこともあります。
人間というのは弱いものですから、どうしても気持ちが落ち込んでしまうこともあります。
しかし気持ちまでが明るくなるといった経験もあるのではないでちょっと華やかな服装をしてみることで、しょうか
ですから、いつもニコニコとしていれば、だんだん気持ちも明るくなってくるのではないでしょうか。
礼儀正しい態度を取っていれば、自分の気持ちまでもが引き締まるものです。
母親がこどもにたずねる。

勉強も自分で集中するよう

子供に注ぎたいと思う

形からなんてと軽く見てはいけないと思います
両親の態度は子供の基準になる結果ではなく、過程で子供を見てあげる世の中では、結果が良くなければ、いくらその過程で頑張ってもそれほど評価されないという面があります。お母さんも子供に対しても、どうしても結果でものごとの判断をしがちですたとえば、子供の成績が悪ければ、あなたが怠けていたから、こんな成績をとるんですよなどとつい言いがちです。子供のほうは成績が悪いという結果で、十分に自分が頑張らなかったからだということはわかっているのです。それに追い討ちをかけられることは、やはり子供にとってもつらいことですお母さんは普段の子供の姿を見ているのですから、のです。


母さん自身が正当化してしまって
母さん自身が正当化してしまって

母さん自身

経験からくる視野の広さには及びません。結果だけで子供を評価することは避けてほしいももちろん結果は無視できないことですが、そこに至る過程のほうが大切です。勉強であれば、普段一生懸命に勉強しているかどうかが大事なことです。結果だけではありません。ある子供は一生懸命に勉強しても、五段階評価の三しか結果としてもらえないかもしれませんしかし、お母さんが、その子供がいつも頑張っていることを知っていれば、その111という評価は、子供にとってはとても価値があるものだということがわかるはずです。そんなときは、評価は111であってもよく頑張ったわねとほめてあげてほしいのです。
他の人は結果だけでしか評価しないかもしれませんが、お母さんだけは、子供のすべてを見ているのですから、結果として表れないことであっても評価してあげて下さい。
教育などというものはできません。学校で一斉購入の硯や下敷きそうすれば、子供もお母さんだけは自分のことをすべてわかってくれているのだと力づけられます運動会などで、みんなが見ている前でわが子が走って、ビリになるのを見るのは、お母さんにとっても悲しいことでしょう。私もそういった経験をしています。もっと頑張れないのかなあとも思いますそう口に出したくなる気持ちもわかります。しかし、そこで親はぐっと我慢してほしいものです。
ビリになってつらく悲しいのは子供のほうです。
その子供はベストを尽くしているのです。
そのことをもっともわかってあげられるのが親なのです。

子供のお尻をたたいて

家に帰ってお母さん、恥ずかしかったわなどと追い討ちをかけるのではなく、頑張ったけど、残念だったね。来年も頑張ろうねと言ってあげれば、子供はお母さんだけはわかってくれているんだと安心します。お母さんだけは僕のことをわかってくれているという安心感を持てる子供は、心が安定して幸せだと思います浩宮様が初等科小学校の二年生のときの運動会で、五OS六○メートルほどの徒競走がありました。紅白の帽子を被って走るのですが、浩宮様は途中で風で帽子が吹き飛ばされそうになったので帽子をわしづかみされて、一生懸命に走りました。結果としては、三位か四位でした。
ご一緒に帰る途中で、浩宮様は「浜尾さん、ぼくね、あれ以上早く駆けれないくらい一生懸命に駆けたんだよ」
子どもが自分の思いどおりにならない


子供がそこでこんなふう
子供がそこでこんなふう

母のいたわりがあったのだろうかいずれの話

と、目を輝かせて、生き生きとした表情でおっしゃっていたのを、よく覚えています。
せっかく一生懸命に走ったのに、三位か四位では、見ているこちらのほうは、残念でがっかりしています。しかし、浩宮様は、とても満足されて、喜んでいらっしゃる。大人は、三位だとか四位だとか、結果しか見ていません。
この浩宮様の態度で、私のほうが教えられました。子供というのは、自分が本当に納得できるほどに頑張れたときには、結果などはどうでもいいのだと。大人のほうが結果にこだわってしまうのです。
ですから、お母さんは結果でなく、その過程での子供の頑張りを認めてあげてほしいのです。
嘘をついたり、わざと物を壊したり、弱い者いじめをしたり、というように悪いことをすると、お母さんは自分を叱ってとても怖い。

先生がなんと言おう

母さん自身に根強く残る感覚

子どもに当たり散らすよう

ですからどんな分野のことでも、現在の自分の力よりも上のことにチャレンジしてみるというのは、集中力を養う意味でも必要なのではないでしょうか。
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人を思いやれる心を人のためにするという気持ち何でもいいから、挑戦してみるということは、そこに目的ができることです。目的意識を持つと、自分の現在の力ではできそうもないことであっても、そこに向かって一生懸命に努力します。この一生懸命に努力するということが大切なのです時には、挑戦しても目的を達成できないこともあるかもしれません。しかし、そこに向かって努力したことは、決して無駄にはならないはずです。しかも、集中力という点では、これほど集中力を養うのに格好なことはないと思います私のことになって恐縮ですが、現在私はライフワークとして聖書の研究に取り組んでいます。
の場合には、子供の頃からの信者ではなく、大学生のときに洗礼を受けて信者になりました私大学を卒業してからは、東宮侍従の時代、聖心女子学院で教えていた時代、その後、現在にいたるまで教育評論家という肩書で仕事をしているわけですが、その間、少しずつは神父様からお話を伺ったりして聖書の勉強をしてきました。

母さんの心の中には信念があります

しかし、この聖書研究をライフワークにしようと思い立ったのは、気がつくのがとても遅かったのですが、四年前のことなのです。
何を自分のライフワークにしようかと考えたときに、イフワークにしようか、あるいは天文学が好きなので、学校では物理を教えてきたのだから、物理をラ天文学にしようかなどと、いろいろと迷いまし私は今六十五歳ですが、です四年前の六十一歳のときに、ふとひらめいたのが、その聖書の研究なの妻は聖心の出身で、子供の頃からの信者で、五人の子供たちも子供時代に洗礼を受けて信者になっています。そして、三番目の娘はカルメル会という戒律の厳しい修道会のシスターになっています。このカルメル会の院長に何年か前にお会いしたとき「この年になって聖書の勉強をライフワークにしようと思い立ったのですが、私は気がつくのが遅すぎました。それが残念でたまりません」
と話したことがあります。
そのとき院長は、神様に時はございませんと言われました。

 

子どものひとり立ちは自分で苦労した分しかできない

子ども部屋はお子さん勉強させるため

いいことをおっしゃると思いましたが、つまり、神様にとっては、遅すぎるということはないという意味なのでしょう。
大いに力づけられる言葉でしたそれ以来、時間が許す限り聖書の研究をしています。私はこれをみ教えの勉強と名付けているのですが、息子や娘たちにパパのライフワークはみ教えの勉強なんだと言うと、み教えの勉強とはずいぶんキザだねなどと言われたりします旧約聖書新約聖書をあわせると、七三巻あって、かつその注解や解説書は膨大に出ています。

育ててくれた親がいる二千年前のユダヤ人の習慣とか表現の方法がわからなければ、本当には理解できないのです。ことに日本人には、異質な文化ですから、とても理解しにくいものです。それだけに、解説書、手引書が必要なのです。定評のある解説書などを読みはじめて、ようやく意味がわかるようになってきました。
とても難解なのですが、み教えの勉強をしているときが、は、得も言われぬ喜びを味わえる至福の時なのです。
オーバーかもしれませんが、私にとって酉欧の美術や文学というのは、キリスト教がその土台にあります。
学校が設置されるようになったのです。
学校が設置されるようになったのです。

育てるということは魂を作り上げることです。

経験がない人少し聖書のことがわかってくると、美術や文学についても、今までと違って、この絵は聖書のこのことがテーマになっているんだといったこともわかるようになってきますですから、信仰のためということではなくても、西欧の芸術をきちんと理解するためには聖書を理解していなければ、本当には理解したとはいえないと思います。その意味では、教養のためにも聖書の知識は必要なものですが、土台はあくまでも信仰です。み教えの勉強をはじめてから、西欧の芸術に対する見方も変わってきました。
私は、この研究をはじめてから、それに集中するために、天文の本や物理の本などは、書斎から片付けてしまいました。

子どもの心が互いに届きあっている親子であれば

それらの本がそばにあると、どうしてもおもしろいので、そちらのほうを見てしま
うからです。
研究に集中するのに邪魔になるからですですから、机のそばには、聖書関係の文献などばかりになっていますさらに、み教えの勉強をはじめるときには、心を落ち着けて、「いま自分がこの勉強をすることを世界の平和、かもしれませんが、日本の平和、人々の平和のために、お捧げします」
とお祈りしてはじめるのです。
ちょっとーカそういう気持ちで、とらえています自分が勉強することで、もちろん自分のためもありますが、自分の家族の平和、日本人すべての平和世界の人々の平和のためにという意向、これはインテンションというのですが、意向を持って行うのです。
聖書の中で、キリストが絶えず祈りなさいと言っていますが、その意味を文字通り受け取ったらそれはできないことだと思いますたとえば主婦がお料理を作りながら祈る、外科の医師が手術の最中に祈るというのは、無理でしょう。子供だけが留守番ということが圧倒的にふえている。


勉強させるため 子どもが自分の思いどおりにならない 教育などというものはできません。

母親がこどもにたずねる。

子供たちにも親に向かって

そこでは、自分が王様なのです。何事にも自分が中心なので、ものおじしないのです。
こんなことを言ったら相手が傷つくのではないかと、相手を尊重する気持ちが、思いやりにつながるのです。思いやりを持っていれば、ものおじするようになるものです。つねに相手の立場を考えられるようになれば、自分もそんなふうに言われたらいやだなとわかるはずなのです。
聖書に「自分にしてほしいことを、他人にしてあげなさい。自分にしてほしくないことは他人にもしないように」といった意味の言葉があります。慎ましさ、奥ゆかしさというのは、相手を自分よりも優先的に考えるということに通じると思います。これは確かに難しいことですが、自分は人に奉售るためにこの世に生を受けたのだという気持ちを持つ人間に育ってほしいのです。
子育てのブレない軸

大学へと進みました。

勉強し直して

ものおじする子供のほうが、人を尊重する気持ちを持っているのです。
子供のいいところをつぶさずに伸ばしてほしいものです。
お父さん、お母さんは、その引っ込み思案は慎重ということものおじということと通じるかもしれませんが、うちの子供は引っ込み思案で困るといったことをよく聞きます。確かに引っ込み思案では、学校などの集団生活の場に入ると、困ることも多くなるでしょう。たとえば、言うべきことをきちんと言えないとか、なかなか周囲になじめないなどといったともありますしかし、引っ込み思案ということは持って生まれたその子供の性格ということが大きいのですからお母さんは子供を長い目で見守ってあげてほしいのですまず、引っ込み思案の子供には、自信をつけさせてあげることが大切です。


子どもに文句を言っている
子どもに文句を言っている

母さんは怒っているのです。

教育だと思う。引っ込み思案であることを責めるのではなく、あなたもやればできるでしょうできるわよ、やってごらんなさいほら、できたじゃないなどと励ましたりなぐさめたりすることです。それもはじめから、いっぺんにその性格を直そうとするのではなく、少しずつ積み重ねていくことです。
引っ込み思案というのは、言葉を換えていい面を見れば慎重ということにもなります。浩宮様は引っ込み思案というほどではありませんでしたが、とても慎重な性格でした。ですから、何でもすぐに飛びつくといったことはありませんでした。たとえば、幼稚園時代には他の子供みんながジャングルジムで遊んでいると、最初の間は見ているだけで、ご自分はすぐには仲間に入らないのです。そして、二、三日観察を続けて、これならば自分もできそうだと思うと、ジャングルジムで遊ぶのです。
浩宮様の場合には、このようによく言えば慎重なのですが、半面、何事も遅いということがありましたとえば靴をはかれるのも遅いし、お食事も遅いのです。
教育というものが真子どもが友達とケンカをしたとき明ところが、集団生活となったら、給食は決められた時間内に済ませなければなりません。浩宮様のようにゆっくりでは、集団生活についていけるのかと、両殿下はとても心配なさいました。
ですから、みんなのスピードについていけるように、靴を履く練習を繰り返しさせたりしていらっしゃいました。普通ならば、見ているといらいらして、手を出したり、口を挟んだりしたくなるのですが、妃殿下は我慢強く練習させていらっしゃいました。
また食事については、毎日お食事のときに「徳ちゃん、もう少し早くなさい。そうしなければ、私たちは二階に行ってしまいますよ」とおっしゃりながら、少しずつ早くできるように、練習させていらっしゃいました。
もちろん、持って生まれた性格もありますから、いくら練習したからといって、それほど早くなるわけではありませんが、集団生活についていけるくらいには努力する必要があったのです。

中学校を待望する

そのために、両殿下はとても根気よく時間をかけて、見守っていらっしゃいました。
このように、その子供の持って生まれた性格は、決して無理せずに、それでは困るというのであれば親は長い目で見守りながら、少しずつ直してあげることです。また、引っ込み思案といっても、逆に見れば、慎重で何事もゆっくりだけれども一度理解すれば、とても深く理解し、自分のものにするといったこともあります。ですから、お母さんは子供の性格、特徴をきちんととらえて、その性格の短所だけを見ずに長所を伸ばしてあげてほしいのです
人の心がわかる人間に自分がされていやなことは人にしないお話ししてきたように、当時の皇太子殿下と妃殿下には、浩宮様を人として立派な人に、人として恥ずかしくない人間にという基本の教育方針がありました。
教育も素晴らしい。


経験があるというこういう話を聞く
経験があるというこういう話を聞く

高校に通っていました。

その背景には皇室の人間としては、国民の模範になるような人間でなければならないということも当然あったでしょう。そして、具体的には明治天皇はじめ歴代の天皇を模範像として考えられていたと思いますそれでは、現代、私たちが立派な人というときに、うか。その手本となるような人物像があるのでしょうか。
具体的にどのような人を考えているのでしょ私の時代には、学校に修身の時間があって、いろいろな偉人について教えられてきましたし、また偉人の伝記をたくさん読んできました。

個性の差によっていろなににしても親にしてみれば