母さん自身に根強く残る感覚

子どもに当たり散らすよう

ですからどんな分野のことでも、現在の自分の力よりも上のことにチャレンジしてみるというのは、集中力を養う意味でも必要なのではないでしょうか。
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人を思いやれる心を人のためにするという気持ち何でもいいから、挑戦してみるということは、そこに目的ができることです。目的意識を持つと、自分の現在の力ではできそうもないことであっても、そこに向かって一生懸命に努力します。この一生懸命に努力するということが大切なのです時には、挑戦しても目的を達成できないこともあるかもしれません。しかし、そこに向かって努力したことは、決して無駄にはならないはずです。しかも、集中力という点では、これほど集中力を養うのに格好なことはないと思います私のことになって恐縮ですが、現在私はライフワークとして聖書の研究に取り組んでいます。
の場合には、子供の頃からの信者ではなく、大学生のときに洗礼を受けて信者になりました私大学を卒業してからは、東宮侍従の時代、聖心女子学院で教えていた時代、その後、現在にいたるまで教育評論家という肩書で仕事をしているわけですが、その間、少しずつは神父様からお話を伺ったりして聖書の勉強をしてきました。

母さんの心の中には信念があります

しかし、この聖書研究をライフワークにしようと思い立ったのは、気がつくのがとても遅かったのですが、四年前のことなのです。
何を自分のライフワークにしようかと考えたときに、イフワークにしようか、あるいは天文学が好きなので、学校では物理を教えてきたのだから、物理をラ天文学にしようかなどと、いろいろと迷いまし私は今六十五歳ですが、です四年前の六十一歳のときに、ふとひらめいたのが、その聖書の研究なの妻は聖心の出身で、子供の頃からの信者で、五人の子供たちも子供時代に洗礼を受けて信者になっています。そして、三番目の娘はカルメル会という戒律の厳しい修道会のシスターになっています。このカルメル会の院長に何年か前にお会いしたとき「この年になって聖書の勉強をライフワークにしようと思い立ったのですが、私は気がつくのが遅すぎました。それが残念でたまりません」
と話したことがあります。
そのとき院長は、神様に時はございませんと言われました。

 

子どものひとり立ちは自分で苦労した分しかできない

子ども部屋はお子さん勉強させるため

いいことをおっしゃると思いましたが、つまり、神様にとっては、遅すぎるということはないという意味なのでしょう。
大いに力づけられる言葉でしたそれ以来、時間が許す限り聖書の研究をしています。私はこれをみ教えの勉強と名付けているのですが、息子や娘たちにパパのライフワークはみ教えの勉強なんだと言うと、み教えの勉強とはずいぶんキザだねなどと言われたりします旧約聖書新約聖書をあわせると、七三巻あって、かつその注解や解説書は膨大に出ています。

育ててくれた親がいる二千年前のユダヤ人の習慣とか表現の方法がわからなければ、本当には理解できないのです。ことに日本人には、異質な文化ですから、とても理解しにくいものです。それだけに、解説書、手引書が必要なのです。定評のある解説書などを読みはじめて、ようやく意味がわかるようになってきました。
とても難解なのですが、み教えの勉強をしているときが、は、得も言われぬ喜びを味わえる至福の時なのです。
オーバーかもしれませんが、私にとって酉欧の美術や文学というのは、キリスト教がその土台にあります。
学校が設置されるようになったのです。
学校が設置されるようになったのです。

育てるということは魂を作り上げることです。

経験がない人少し聖書のことがわかってくると、美術や文学についても、今までと違って、この絵は聖書のこのことがテーマになっているんだといったこともわかるようになってきますですから、信仰のためということではなくても、西欧の芸術をきちんと理解するためには聖書を理解していなければ、本当には理解したとはいえないと思います。その意味では、教養のためにも聖書の知識は必要なものですが、土台はあくまでも信仰です。み教えの勉強をはじめてから、西欧の芸術に対する見方も変わってきました。
私は、この研究をはじめてから、それに集中するために、天文の本や物理の本などは、書斎から片付けてしまいました。

子どもの心が互いに届きあっている親子であれば

それらの本がそばにあると、どうしてもおもしろいので、そちらのほうを見てしま
うからです。
研究に集中するのに邪魔になるからですですから、机のそばには、聖書関係の文献などばかりになっていますさらに、み教えの勉強をはじめるときには、心を落ち着けて、「いま自分がこの勉強をすることを世界の平和、かもしれませんが、日本の平和、人々の平和のために、お捧げします」
とお祈りしてはじめるのです。
ちょっとーカそういう気持ちで、とらえています自分が勉強することで、もちろん自分のためもありますが、自分の家族の平和、日本人すべての平和世界の人々の平和のためにという意向、これはインテンションというのですが、意向を持って行うのです。
聖書の中で、キリストが絶えず祈りなさいと言っていますが、その意味を文字通り受け取ったらそれはできないことだと思いますたとえば主婦がお料理を作りながら祈る、外科の医師が手術の最中に祈るというのは、無理でしょう。子供だけが留守番ということが圧倒的にふえている。


勉強させるため 子どもが自分の思いどおりにならない 教育などというものはできません。